善助の城と神の木 Part2
三寒四温のうちに季節は冬から春へと移ろい、いまや舞鶴公園(福岡城址)の梅も満開で、訪れる人々はやわらかな日差しのなか馥郁たる花の香りに包まれ、都会の喧騒が夢みたいにおもえるヒーリング的な空間をしばしく感受しています。
祈念櫓と紅梅 紅白梅 満開の梅園
さて、昨年4月に栗山善助(備後守利安)が慶長7年(1602年)から元和元年(1615年)まで城主であった「筑前六端城」の一つ麻氐良城と神の木をテーマにブログを構成しました。
その後、麻氐良城址においては杉林に混り生育しているクスノキの大木(ほとんどが天道生えで幹周0.94m~2.67m、高さ8.0~12.0m余、幹周2.50m以上は5本)14本を確認、その中の1本は筑前國式内十九社を祀る祠前に植えられたご神木で最も大きく樹齢150年前後と考えられます。
栗山善助と黒田官兵衛から拝領の兜 上座郡山田村麻氐良古城之図 ご神木(幹周2.67m)
東曲輪(北側・東)の隅石 東曲輪のクスノキ(幹周2.51m) 東曲輪(北側・西)の隅石
麻氐良城には幾つかの出城があったこともわかり「忙中有閑」随時現地踏査を行いました。
まず、龍光山圓清寺の東側に位置する「前隈山城」は、小高い山(比高30m)に南北40m東西20mの主郭があって、周囲に幾つかの帯曲輪を巡らしていますが、現在は一面の柿畑であり、堀切や横堀のような城郭と考えられる施設は確認不可能です。
また、北側の茶臼山城も開墾のため山全体が消滅しました。
前隈山城址遠望 前隈山城古城之図 頂上の曲輪付近
さらに、恵蘇八幡宮東側の本陣山(比高100m、地元で陣屋と称される周辺一帯は同じく柿畑で頂上は雑木に覆われ昼猶暗い)には「本陣山城」があり、主郭は東西15m、南北20mでその西側に同規模の曲輪も確認され、北側に4層の石積み(高さ1.5m、城の遺跡であるか不明ですが相当古く葺石とは異なる)と各層に幅3.6~5.4mの帯曲輪があり、周濠を挟み古墳時代中期の「本陣古墳」が残されていました。
古墳は円墳で葺石が見られ、周囲に多数の筑後川河原石が散乱している状態です。
本陣山城址遠望 本陣山城古城之図 本陣山城の石積み(4層)
本陣古墳 本陣古墳の葺石跡 城址を巡る周濠
古墳に登ると頂上付近にハゼノキの大木が1本そびえ立っていました。
ハゼノキは幹が4分裂し幹周は2.66m、高さ12.0m余で、当初はクスノキと思って見上げたところ鮮やかな紅葉が眼に映りびっくり仰天、ハゼノキと分かり再度環境省方式で幹周を測定しました。
その結果、幹周は3.81mになり、これほどの大木は全国でも20本程度(環境省データベース)とポピュラーな割には非常に希少です。
ところで、幹周について国交省方式は目通りGL=1.2mで複数の幹や株立ちは幹周合計の70%、
環境省方式は目通りGL=1.3mで複数の幹や株立ちは幹周合計のため値が大きくなります。
現在、巨木のランキングは環境省方式で測定したものです。
ハゼノキの紅葉 古墳頂上のイロハモミジ群 ハゼノキの紅葉その2
巨木の定義は幹周3.0m以上で、株立ちの場合主幹が2.0m以上あり、それぞれの幹周合計値は3.0m以上あることが条件です。
参考までに、ハゼノキの日本一は馬頭観音のハゼノキ(鹿児島県曽於郡大崎町)で、幹周5.2m、
高さ10.0m、樹齢は不明ですが500年以上と推定しました。
・葺石:古墳時代の墳墓や墳丘を覆う外部施設で、墳丘斜面などに河原石や礫石を積み、貼り付けるように葺いたものです。その祖形は弥生墳丘墓に認められ、この近くの仙道古墳(筑前町久光、国指定史跡)も葺石を持っています。
・ハゼノキ:ウルシ科の落葉小高木(雌雄異株)、別名にリュウキュウハゼ、ロウノキ、トウハゼなど、果実は薩摩の実と呼ばれ、木蝋を採取するため江戸時代頃に琉球王国から持ち込まれました。(ウルシほど強くはないが被れることもあり要注意)
最終的に、前隈山城及び本陣山城は出城でも木柵で周囲を防護した規模の砦と考えられます。
ていましたが、天正8年(1580年)、織田信長から播磨平定を命じられた羽柴秀吉軍と戦い
宇野一族は滅亡、しかし、子孫はいつの間にか戦乱のドサクサに紛れて敵将黒田官兵衛の家臣
となり、栗山善助と親しく交わり、その縁を以て名島屋敷から麻氐良城へ善助親子にノコノコ ついて行き、元和元年(1615年)の廃城後も何故かそのまま土着、以来風雪に耐えて400有余
年、おかげでいつしか筋金入りのカントリーボーイとなり果て現在に至ります。