禅寺のシンボルツリー
木々の緑が日増しに色づくさわやかな季節到来で気持ちがはずみますね。
しかし、「一月行く」「二月逃げる」「三月去る」はやひと月が過ぎて、またスタッフ ブログを書くことになりました。
総務課職員は毎回ネタ探しに苦慮しているのが現実で私もそのひとりです。
それはさておき、今月初め「ブログ、ブログ」と呟きながら国道386号線の原鶴温泉付近 を通行していると、旧日田街道への分岐点で大きなクスノキ2本が目に付きました。
「大膳楠」と記されたその地点は、寛永9年(1632年)の「黒田騒動」で有名な栗山利章 (通称は大膳)に因んだ幾つもの伝説があります。
・クスノキ:樟、楠、クスノキ科の常緑高木、成長は速いうえ寿命が非常に長く幹周り10m
以上の巨樹も多く、各部全体から樟脳の香りがして虫害や耐水性にすぐれ海中に建つ厳島
神社(廿日市市宮島)大鳥居の柱もクスノキを用いています。
大膳楠遠景 由来の石碑 縁起の良い夫婦楠
※大膳楠:400年ほど前、ここは高山の淵で大きな池があり、栗山大膳が旅人に悪さをする巨大
な亀(池の精)を村人から嘆願され鉄砲で射殺した直後、大雨の降って山崩れが起こり茶屋
と民家は泥の下に埋まったという、その災害にも耐えたクスノキの大木は延宝7年(1679年)
に焼失、現在の「大膳楠」は焼けた根元より出芽して育ったものです。
※黒田騒動:黒田藩第2代目藩主忠之のわがままを諫めて幕府による藩取りつぶしの回避を意図
し、「藩主に反逆の企てあり」と重臣栗山大膳は日田代官に直訴を行い、その罪で奥州盛岡へ
配流されたが罪人扱いされることなく手厚い待遇を受け62歳の生涯を終えました。
ところで、その日は思いがけず仏前に供えるシキミがひそやかな一輪の白い花を咲かせました。
先の「大膳楠」と掛けて考察した結果、『栗山家の菩提寺』にブログヒントがある旨仏様の啓示 と勝手に判断し、栗山利安(利章の父で通称は備後守)が主君黒田孝高(如水)の冥福を祈るため 慶長9年(1604年)に建立した曹洞宗龍光山圓清寺(朝倉市杷木志波5276番地)を訪ねました。
シキミの開花 圓清寺山門 六地蔵と多数の石仏
※栗山利安:戦国時代から徳川時代前期にかけての武将で黒田二十四騎、黒田八虎の一人、
黒田藩の筆頭家老で黒田長政が備前中津(12万石)から筑前の國(52万石)へ転封されたのち
上座郡麻底良城城主(1万5千石)となり、慈悲をもって民に接し慕われました。
『黒田武士』で有名な母里太兵衛とは義兄弟の契りを結び、また天正7年(1579年)の
有岡城攻防戦では荒木村重に10ヶ月余幽閉された半死半生の黒田如水を救出しています。
山門をくぐると鐘楼の前にカヤの大木があり右脇に栗山大膳追慕碑も建立されています。
カヤは幹廻り340㎝、樹高は8m、開山当時初代住職の第翁和尚により植えられた由緒ある
名木で、惜しいことに頂上から4mほど剪定され幹は一部空洞がみられました。
(過去に積雪の重みで大枝が折れたこともある由)
本堂と鐘楼 カヤの木周辺の風景 カヤジュニア(幹廻り25㎝、高さ3m)
カヤはなぜか曹洞宗の寺院に多く植えられています。
これは高祖道元禅師が修行中にカヤの実を食した故事と関係の深く、またカヤの木は古来より
仏像彫刻及び寺の建築材などに使用された経緯があるためと独断で解釈、和尚さんへ問いかけた ところ私の仮説は穏やかに否定されました。
栗山大膳追慕碑(中央の石碑) 圓清寺の歴史 栗山備後守墓碑
ませんか?」尋ねたところ、「東側のクスノキをご覧になりましたか」和やかに案内されてようや く木の変異に気付きびっくり仰天しました。
なんと種の異なる非常に珍しい完全な合体木(連理木)で、クスノキに幹全体を包み込まれた ツバキが見事開花しているありさまは、まさに自然の織りなすミステリアスなアートです。
※クスノキ(幹廻り287㎝、樹高は12m)は樹齢約100年で、ツバキ(幹廻り75㎝、樹高は4m)
は樹齢約200年とかなり古く、10年前に山門や塀等を改築したとき東側下駐車場から移植され、
現在ではどういう因縁なのか切っても切れない仲になりました。
驚きクスノキ椿の木 結合部分の拡大 ツバキの開花状況
・ツバキ:椿、ツバキ科の常緑高木、成長は遅く寿命は長い、花が美しく利用価値を高いの
で万葉集の頃からよく知られており、年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地
に残っています。
ツバキは葉も観賞の対象となり江戸時代に好事家たちは錦魚葉(金魚葉)・百合葉・桜葉・
鋸葉・弁天葉・斑入り等様々な突然変異を見つけ出し育てました。
合体木は夫婦和睦と家庭繁栄を暗示するこの上なく意義深い御仏の賜り物です。
ブログ担当は七度総務課経理係のOldManでした。