善助の城と神の木
正月から待望のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』が放映され相乗効果で福岡城址を訪れるひとも 多くなりこれから先が楽しみですね。
さて、第2回に登場した栗山村の善助は天正6年(1578年)有岡城の戦いで、荒木村重を説得に向かいそのまま捕えられ半死半生の黒田官兵衛を救出した栗山利安であり、福岡城築城後は三の丸東側(東の丸、現在は福岡高等裁判所)に屋敷を構えていました。
・栗山利安:戦国時代から徳川時代前期にかけての武将(黒田藩筆頭家老)、黒田
二十四騎、黒田八虎の一人、官兵衛股肱の家臣で戦場の功名を11度挙げました。
黒田武士で有名な母里太兵衛とは義兄弟の契りを結び、強情な性格で黒田長政を
困らせた太兵衛も善助には素直に従ったと伝えられています。
福岡城址(大手門と潮見櫓) 栗山善助(黒田二十四騎図) 善助の屋敷址(東の丸)
善助は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、黒田長政が豊前國6郡12万石から筑前國52万石へ加増移封されたときに1万5千石を与えられ、「筑前六端城」の一つである麻氐良城主となり、慶長7年(1602年)に中世の城郭を高石垣、瓦葺礎石建物を持つ城郭へと大改修しました。
※麻氐良山の神は70数年前にも祟り、木を伐った山麓の村一帯で疫病が蔓延したそうです。
・麻氐良城:左右良城、真寺城とも書き標高294.9mの麻氐良山に位置します。
(場所は朝倉市杷木志波)
麻氐良山遠望 麻氐良城址図 麻氐良城址の石碑(登り口)
このような荒神を祀る麻氐良山には遙か昔小学校の遠足で登ったような記憶がありますが定かではなく、以前から一度城址を確認したいと考えていました。
その後、昨年11月中旬に登頂を思い立ち麻氐良山へ行き踏査したところ、麓は一面の柿畑で路が非常に分かり難くしばし周辺を彷徨う羽目に陥り思案する有様です。
ようやく城址の石碑を臨み「麻氐良布祠」の鳥居が参道入り口だと気付き、石段を上ると杉に囲まれた下宮があり、ここには社前にサカキが2本(幹周0.50mと0.55m、高さ7m程)植えられ、両側にお座りするユニークな子連れの狛犬が親子共々私を歓迎してくれ心が躍ります。
・サカキ:榊または賢木、ツバキ科の常緑小高木、降神の目印や依代として神事の祭
壇・神棚に欠かせない木です。
麻氐良布神社縁起 筑前國名所図絵(麻氐良布神社) 麻氐良布神社下宮
親狛犬の背中に子込狛犬を乗せて 参道に多い巨岩 8合目の石祠
途中は100t前後の巨石が多数露出、また城の石垣と推定される加工した石が散乱する箇所も頂上付近でかなり見られ、何となく不思議な光景です。
麻氐良布神社の拝殿はやや朽ち果て本殿はトタン板で囲われており、奉納された三十六歌仙の絵馬は剥がれた状態でいたるところに小学生の落書きが目立ち、幼稚な子供とはいえ罰当たりなことをしたものです。
頂上は15×20m余で意外に狭く周囲の雑木林には破壊された高石垣の一部と思われる石積みもあり、当時の城郭を偲ぶものはこれ以外になくて少々残念な気がします。
麻氐良布神社(城郭) 拝殿の絵馬(三十六歌仙) 城址の風景
破壊された石垣(北側) 破壊された石垣(南側) 山頂へ至る石段
また、社殿の前にご神木(幹周2.30m、高さ12m程)が聳え立ち、折れた小枝の葉と幹の形状からオガタマノキと判明、南側には大木のイチョウ(幹周2.75m、高さ13m程)もみられ樹齢は140年以上(推定)で2本とも同時期に植えられたと考えられます。
石段側に平成の記念樹としてサカキ(幹周0.40m、高さ4m程)が1本、十九社の石祠の左横にもサカキ(幹周0.58m、高さ7m程)が1本植樹されていました。
・オガタマノキ:招霊木または黄心樹、和名は神道の「招霊」(オギタマ)転訛、モ
クレン科の常緑高木、日本書紀「天岩戸」において天鈿女命が手にして舞ったと伝
えられています。
オガタマノキ(ご神木) 十九社(筑前國式内社十社)の石祠 イチョウの大木
善助屋敷付近の字は里城(館の意味)と称し現在は高石垣が蔓草に覆われ見る影もありません。
多数の武家屋敷址に残る石垣も同様で、やがては歴史の片隅に埋もれてしまうでしょう。
善助の屋敷址 善助の屋敷址から城下を望む 武家屋敷址に残る石垣
明日はバレンタインデーですね。
昨年、一粒のチョコレートにも恵まれず、寂しい思いをしたあなたの幸多からんことを麻氐良布神社と善助大明神にお祈り致します。
ブログ担当は十一度、総務課経理係のOldManでした。